やあ。

そのへんに座って。
うん、何もないけど、
ここいらの下草は丈があるから。
甘いにおいがするだろう、すこし青臭いけど。

ちょうどいいところにきたね。
いまが一番、いろいろなものが
ここに集まるときなんだ。
たとえば…そこにきている風。
この季節のちょうどいまごろ、
ここですこし渦をまいて、また発つ風。

そう、風は見えない。
たとえば、草をゆらせば、
風がそこにいることがわかる。
たとえば、耳をかすめて吹きすぎれば。
たとえば、腕にあたって吹きすぎれば。
それは、風そのもの、じゃない。

水は、見えない。
たとえば、手にすくえば、
水がそこにいることがわかる。
たとえば、水底の石がゆらめいて見えれば。
たとえば、泡をまきこんで耳をくすぐれば。
それは、水そのもの、じゃない。

何かが見えることは、
何か、そのものをわかることとはちがう。
何かが聴こえることは、
何か、そのものをわかることとはちがう。
見えた、というだけで、
聴こえた、というだけだ。

それでも、見えたもの、聴こえたもの、
そのむこう側に、そのものがある。
そのものは、けっして、わからない。
それでも、そのものがいることを、
目をこらして、耳をすませて、
手さぐりで、感じることができる。

そのものをどう表すか、それは自由だ。
風といってもいい。水といってもいい。
炎といってもいい。霊といってもいい。
僕はひととき、地球が動いているのを
ここで見ていた。そう表していた。
いまは、表すことに、あまり興味がない。

うん、わかってる。
ふもとの人たちが僕について話してること。
ここにいれば、聞こえてくるからね。
さまざまな思いから、さまざまに僕をよんでる。
とおとい。なさけない。うとましい。おそろしい。
にくい。…多いのは、わすれておきたい。

彼らは、人どうしであつまるために
たがいに守るべき掟をつくった。
さまざまなことを、人どうしですぐに
分かりあえるような道具をつくった。
僕も、生まれてからしばらくは、
彼らのなかで育った。掟のなかで。

掟は、それが指ししめす、そのものじゃない。
見たこと、聴いたことが、そのものじゃないように。
僕は、風を水を、炎を霊を、大地を、宇宙を、
そのものを、全身で、感じていたかった。
だから僕は、ふもとの街をでた。
ひきかえに、掟を、仲間を、なくした。

こうなったことを、僕は、くやんでいない。
かなしい、さびしい、そう思ってる。
僕にだって、仲間どうしで寄りあいたい、
という気もちはあるからね。でも掟は、
掟にもとづくもの、もとづかないもののあいだを、
高く、深い、断絶で分かってしまった。

そうだね、きみももう、彼らには
とらえられないものになってしまった。
でも、そうでなければ、きみは僕に
あいにこようなんて思わなかった。
僕はきみがいることに気づくこともなかった。
そうだろう?

そう、いくか、そろそろ。
送るよ。
きみのことは、僕が、わすれない。
いってらっしゃい。

またね。

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