篠房六郎日記
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+ '10年03月20日(土) ... 一周忌に寄せて +

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作品、というのは何か気恥ずかしい。 
うっかりヒマと勢いに任せてついこねてこねてこねあげて、 
結果的にひと塊になった、この良く分からんものを呼称するとしたら、 
まあ、これは作品と言う単位で括る事もやぶさかではないと思う 
 
と、ひとしきり言い訳を述べないとまず自分が 
何かしらのものを作り上げたことすら認めたくないような 
引っ込み思案で極度にシャイな、結構面倒くさいメンタリティの持ち主が 
 
意外と伊藤計劃先輩であった。 
意外としっかりしてなくて、ずっと逡巡している人でもあった。 
 
伊藤先輩が亡くなってから一年経って、遺稿集も発売され、 
伊藤先輩のあの光り輝く花火のような最後の3年間の執筆活動と 
そこから生み出された素晴らしい作品群についてはいくらでも他の人が 
詳細に語りついでくれると思うので、 
私は、ただ、出会ってから10数年の間での、余計な話でもしようかと思う 
 
たまに伊藤先輩と私が所属していた大学の漫研の先輩方と話してみると 
色んな話が出てくる出てくる 
 
大学に2浪したのはその最中ににも映画を観まくってたせいじゃないかとか 
部誌に載ってた、完成しなかった漫画に対する言い訳が面白かったとか 
女の子にフラれて夜の東京タワーまで一緒に歩いてたそがれた事があるぞとか 
就職に失敗した後漫画賞に投稿して、アシスタントをやってたこともあった 
(ついでに言うと、私の所でアシスタントして貰った事もあった。)とか 
それこそ余計な事がぞろぞろと。 
 
私の印象でいえば、伊藤先輩はごく物静かな人だった。 
 
「初対面の人に対して、敬語を使わない人を、僕は信じられません」 
と、後輩の私に対しても常に君付けの丁寧語で話すのが常だった。 
 
後で聞いてみると、著名な作家さんの集まりに出ているときも 
常に物静かにニコニコとしていたらしい 
 
「まあ、臆病者のカッコつけだったんだな」と先輩方は口を揃える。 
 
しかしずっと黙っていたかと思えば、唐突に、切れ味鋭いジョークや下ネタを 
ボソりと呟いたりして、気の緩んだであろう所で真っ黒な地が出てしまう所が 
曲者っぽくて面白い人だった。 
 
体育会系の強圧的なタイプとはまるで正反対に、わきまえた 
距離をとってくれる分、特筆して面白いドタバタ話などは無いのだが 
 
一つ私の印象に残っているやり取りがある。 
 
大学に居る当時、私は何度も漫画の投稿を繰り返していて、 
それなりの受賞暦があり、バイトもせずにその賞金だけで遊んでたり 
してたのだが、いざ、漫画家になろうかというと、そこまで思い切る自信は無い。 
まあ、一応就職も考えてみようかなと、大勢の前でうそぶいた。 
 
そしてその後部室でたまたま伊藤先輩と二人きりになった時に 
いきなり「篠房君は、作家になる気はないのですか」とそのままズバリと 
聞いてきたのだ。 
 
自分自身、どう答えたのかはよく覚えていないが、驚いた。 
そこまでダイレクトに深く踏み込んでくる先輩だとは思っていなかった分 
余計に強く記憶に残っている。 
 
その時から私もまたぼんやりと10年近く思っていたのだと思う 
「そういう先輩はいつ、作家になるつもりなんですか?」と 
 
 
 
「アイツはあの病気がなけりゃ、作家にはならなかっただろうな」 
漫研の先輩方との話の中で、驚いたのがこの言葉だ。 
どうしてそう思うのかと聞き返すと、伊藤先輩は自分の得た 
webディレクターという仕事をちゃんと本業として暮らしていこう、と 
決意していた事と、作品に対しては、誠実な観客で、読者で、 
ファンで、受け手であればそれでいいと思っていた事、 
それは本当に確からしい。 
 
作品の受け手として、いかに伊藤先輩が誠実であったのか、 
それは古くから先輩のブログに触れている人にとっては明白な事で 
知らない人は、早川書房から出ている遺稿集の映画評などを読んで欲しい。 
 
何度か伊藤先輩と一緒に映画を観に行った事はあるのだが、 
同じものを観たあとで、先輩の評論を読んでみると、まるで映画に他する視力が 
違っていた事に驚いた。私が何かうすぼんやりとしか見てなかったものを 
ものすごく微細に的確に、かつ多角的に捉えて解説してくれていて 
作品に対するただの感想やいちゃもん付けに留まらない、新しいものの見方を 
教えてくれる批評と言うものに、私は大学に入ってから初めて出会い 
影響を受けて、色々勉強させて貰った事を、今でも深く感謝している。 
 
先輩に才能があることは、その文章を読んだ誰にでも分かっていた。 
実は「虐殺器官」のプロットに近いものは遥か昔からあって、 
周りから、早く書け、早く書け、と急かされてもいたらしい。 
 
しかし、先輩は偉大な先達の作品群を尊敬するあまり 
自分が作品を書くことは恐れ多いと、自らの足を堅く縛ってもいた 
 
「まあ、臆病者のカッコつけだったんだな」 
つまりは、そういう事かもしれない。 
 
 
病は常に伊藤先輩と共にあった。学生時代にも 
喘息の発作で急に意識を失い、洋式便器の中に 
真正面から顔を突っ込んで死にかけたことなどを私たちに 
冗談めかして明るく話したりもしていたが、 
 
本当にシャレにならなくなったのが、卒業して数年後 
最初に癌が発見された時のことだ。 
 
「先輩、この機会に試しに、小説とか、書いてみたらどうですか?」 
 
漫研のOB,OGで大人数のお見舞い団を結成して、先輩の病室を訪ねた時 
誰か一人が控えめに提案した。少し不謹慎なきらいもあるが、皆の総意でもあった、しかし 
 
 
「こうして死が間近に迫ってるのを感じるとですね、フィクションとかそういうのに 
まるで関心がなくなってくるんですよね」 
これが、その時の先輩の答えだった。 
 
そういうものか 
 
そういうものか、と私たちはただ受け止めるしかなかった。 
他の誰も、伊藤先輩の気持ちなど分かりっこない。 
 
何度も検査や投薬や入退院を繰り返し、やがて先輩からは髪が抜け落ち 
足を引き摺り、杖をついて歩くようにもなった。 
「怖いとか、泣きたくなる気持ちは当然あります。しかし、そういうのは治療に際して 
良くないから、と医者に薬を飲まされたら、非常にフラットな気持ちになって 
それが一切解決してしまったんですよ。人間の感情って、一体何なんでしょうかね」 
 
それでも私たちに会って話すときは、先輩にとってはまずまず調子のいい時だった。 
基本的にはまあみんなでとにかくバカ話ばかりをした。 
 
 
小松左京賞に小説を投稿したと聞いた時、 
伊藤先輩を知っている誰もが、いよいよやった、と思った。 
 
死の恐怖の前には、フィクションなど無意味だと言った 
あの先輩をこうまで突き動かしたのは何だったのか、 
誰にもその心情は分からない 
私たちはただ、憶測するだけでも言葉に詰まる。 
 
しかし、先輩の心に常に諦観も共にあった。 
 
最終的に小松左京賞に落選したと聞いた時、漫研の皆でちょっとした飲み会を開いて 
とにかく折角書いた文章が没になるのは勿体無い。webで無料公開するなり 
同人誌で出すなりして少しでも多くの人に読んで貰おう、表紙挿絵装丁なら 
みんなで全面的に協力するから、と提案してみたものの 
 
「落ちたものは落ちたものです、やはり充分なレベルまで達していなかったという事でしょう。 
とにかく頑張るならまた次作でということになります」 
と、気の乗らないことを呟くばかりで、 
 
この後、円城塔さんが励まして一緒に早川書房に原稿を送る事を提案してくれなければ、 
自分は多分、作家としてデビューはしていなかっただろう、と先輩本人も 
正直に認めている。 
 
 
「いつも誰か任せなんです、僕は」 
照れくさそうに笑っている先輩の顔は今でもすぐに思い浮かべる事が出来る。 
先輩が今こうして残した功績は沢山の恩人の手助けがあってこそであるのは 
間違いない 
 
私はといえば、10年近く経って、ようやく先輩が作家になって同じ立場に立ってくれた事が嬉しくて嬉しくて一緒に売れるラノベを書こう、大ヒットエロゲーを作ろうなどといいつつも 
ほぼ実現不可能、やるだけ無駄のしょうも無い企画を出し合ってお互いにバカ笑いしてたこの時期の先輩の事が一番印象に残っている。 
 
 
そして、先輩は、まだ見ぬ傑作の執筆の最中に、亡くなった。 
執筆どころか、身動きも困難になった頃、先輩は見舞いに訪れた同期の親友に 
「自分はこういう形で作家になった事に、いくばくかの後悔がある」と 
語ったようだ、後悔とは何か、と尋ねてみると、 
「自分自身でしっかりと、作家になるという意思をもって道を選ばなかった事」 
であるという。 
 
星雲賞の授賞式での、先輩のお母さんの話によると先輩は、検査で 
両肺に転移が見つかった時「両足がなくなってもいいから、僕はあと、20年、30年生きたい。書きたいことがまだいっぱいある」と言ったらしい。 
 
その言葉を聞いて、どうしようもなく胸が締め付けられた。 
 
書き始めるのが遅かったのだとか何だとか、結果的なことだけは 
後からでもいくらでも言えるだろう。 
 
ただし、「虐殺器官」「METAL GEAR SOLID GUNS OF THE PATRIOTS」「ハーモニー」 
いずれも、あの時の、あの先輩にしか書くことの出来なかった傑作である事に間違いない。 
特に「ハーモニー」の執筆時にはまた投薬の影響で、感情的なものがまた全て遠ざかって 
しまったために、フィクショナルな人間を動かす事が出来なくなったと、苦しんでいた事も 
作品の内容に確実に影響を与えていると思う。 
 
最後に私が先輩をお見舞いに行った時、先輩は私に口を開くのもやっとの状態で 
「篠房君は、覚悟をした事とか、ありますか?」 と私に聞いてきた。 
 
何を答えようととそれは、嘘偽りでしかないことを思い知らされる、恐ろしい問いかけだった。 
未だにそれに対しては上手く答える事が出来ないし、 
これから先に答えが見つかるとも思えない。 
 
ただ、粛々と逡巡して生きるのみ、だ。 
 
 
 
先輩は小松左京賞に小説を投稿した後で、同期の友人の前で 
声に出して宣言をしていたらしい。 
「僕はこれから、作家になるつもりです」と 
 
勿論普段から、そういう事を声高に言う人ではない。 
物静かに何かを考え逡巡しつつ、やがてはぼそり、と鋭い事をまたつぶやく 
 
涙が出るくらい嬉しかった、とその人は言った。 
 
 
私は伊藤先輩のことを思い返すにつけ、懐かしい、と思うと同時に 
いつも創作のことでは背筋がぴんと伸びるような、伸ばさなきゃいけないような 
気がしてしまう 
 
 
伊藤計劃先輩の事を知りたければ、とにかく、残された著作の方を読んで欲しい 
この文章はただのおまけで、充分に余計な話だ。 
 
しかしそれでも、こうして私が書き残した小さな引っかかりが、点描となって 
余白の多い先輩の肖像を少しだけでも具体的に、より身近にイメージ出来る 
出来るようになれば、と記録をここに記しておく事にしよう 
  
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